映画

【ネタバレあり】映画『ウィキッド 永遠の約束』感想:初見のもやもやが「大絶賛」に変わった決定的な理由

映画『ウィキッド 永遠の約束』基本データ

  • 原題:Wicked: For Good (Wicked Part Two)
  • 監督:ジョン・M・チュウ
  • 主要キャスト
    • シンシア・エリヴォ(エルファバ)
    • アリアナ・グランデ(グリンダ)
    • ジェフ・ゴールドブラム(オズの魔法使い)
    • ミシェル・ヨー(マダム・モリブル) ほか
  • 公開日:2026年3月6日(日本)
  • 上映時間:137分
  • 視聴方法(2026年3月現在)
    • 全国の劇場で公開中

この記事でわかること

  • 前作『二人の魔女』が完璧すぎたがゆえに、本作の評価が分かれやすい理由
  • 一見おとなしく感じる第二幕に隠された、もう一つの「真のテーマ」
  • 視点を変えると見えてくる、本作が「グリンダの物語」である決定的な証拠
  • 一作目の名曲「Defying Gravity」と完璧な対をなす圧巻の演出
  • 『オズの魔法使い』必修!ドロシーすらも「利用される側」という絶望的な構図

はじめに

『ねことシネマ』へようこそ!皆さんは、前作があまりにも完璧すぎた映画の「続編」を観に行くとき、期待と同じくらい強い不安を感じたことはありませんか?

今回ご紹介するのは、2026年3月6日に日本で公開された大ヒットミュージカルの完結編、映画『ウィキッド 永遠の約束』です。 昨年公開された一作目『二人の魔女』は、私個人の2025年上半期映画ランキングで堂々の第1位に輝いた作品でした。映画館のスクリーンに「To Be Continued」の文字が映し出された瞬間、「とんでもない傑作を観てしまった」と放心状態になったのを鮮明に覚えています。アカデミー賞レースにも食い込み、批評家からも観客からも絶賛された一作目は、まさにミュージカル映画のひとつの到達点でした。

だからこそ、続編である本作を観に行くにあたって、「もう一作目で完成されているのに、これ以上やらなくていいんじゃないか」という不安を抱えていたのも事実です。そして公開初日、実際に劇場へ足を運び鑑賞し終えた直後の私の率直な感想は、「一言では言い表せない、もやもやした気持ち」でした。 SNSなどを見ても、「二作目でちょっと落ちてしまった」という意見が散見され、大手レビューサイトの支持率も一作目より下がっている傾向にあります。帰り道の車の中、私は「なぜ今回は一作目ほどハマれなかったのだろう」とずっと自問自答していました。

しかし、その夜。ベッドの中で物語の構造やキャラクターの心情をじっくりと噛み砕いていくうちに、私の中の評価は180度反転しました。 「いや、待てよ。視点を変えれば、これはとんでもない名作じゃないか。二作目としての役割を完璧に貫き通した、絶対に作られるべき続編だ」と気づいたのです。 今回は、私がなぜ初見でもやもやし、そして一夜にして本作を大絶賛するに至ったのか。その視点の変化と、本作が描く本当の恐ろしさについて、ネタバレありで徹底的に語り尽くしたいと思います。

もちろん、これから綴るのは本作に対する、私個人の勝手な解釈に過ぎません。「そんな見方もあるのか」くらいの軽い気持ちで、お付き合いいただければ幸いです。

(C)Universal Studios. All Rights Reserved.

あらすじ

舞台は、魔法と陰謀が渦巻くオズの国。かつてシズ大学で出会い、固い友情で結ばれていたエルファバとグリンダは、オズの権力者たちが隠していた恐ろしい真実を知り、それぞれ全く別の道を歩むことになります。

体制に抗う道を選んだエルファバは、「悪い魔女」という悪名を着せられ、民衆の共通の敵として追われる身となりました。しかし彼女は、言葉を奪われ迫害される動物たちのため、そして自由のために、孤独な戦いを決してやめようとはしません。 一方、体制側に残る決断をしたグリンダは、「善い魔女」として祭り上げられ、民衆を導く希望の象徴として絶大な名声と人気を手にします。しかし、光り輝く笑顔の裏側で、彼女の心にはエルファバとの決別という深い影が暗く落ちていました。

どれほど互いを思い合っていても、決定的な和解の言葉は届かず、二人の溝は残酷なまでに深まっていきます。そんな膠着状態のオズの国に、突如としてカンザスから一人の少女・ドロシーが迷い込んできました。この予期せぬ異邦人の登場によって運命の歯車は大きく狂い始め、エルファバとグリンダは、かつてのかけがえのない友と、そして自分自身が抱える「嘘」と正面から向き合うことになるのです。

作品の魅力

ここからは、私が本作を鑑賞した直後の「もやもや」から、一夜にして「大絶賛」へと評価を覆した理由を、5つの視点から紐解いていきます。

なぜ初見で「もやもや」したのか?ミュージカル第二幕の避けられない宿命

私が本作を観終えた直後、一作目ほどの熱量を感じられなかった最大の理由は、「ミュージカルにおける第二幕」という構造的な宿命にあります。 私は劇団四季などの舞台芸術も好んで観劇するのですが、二幕構成のミュージカルにはある種の様式美が存在します。例えば『アナと雪の女王』ならエルサが「レット・イット・ゴー」を歌い上げ、『美女と野獣』なら野獣が「愛せぬならば」を絶唱して第一幕が下ります。つまり、演者が凄まじい熱量で大きなナンバーを歌い、観客の感情と第二幕への期待を限界まで煽って終わるのが、第一幕の鉄則なのです。

『ウィキッド』の一作目も全く同じでした。ラストの「Defying Gravity」の圧倒的な演出と歌唱力は、まさにスタンディングオベーションもののエンタメとしての爆発力を持っていました。 対して第二幕にあたる本作は、その熱狂のあとに物語を「落とす」ところに落ち着かせなければならないという、非常に困難で地味な役割を担っています。一作目のようにひたすら盛り上げて「続く!」と終わる形に比べれば、展開がおとなしくなり、カタルシスが薄れるのは当然のことなのです。

さらに物語の構造上、本作は『ジョーカー』や『クルエラ』のような「ヴィラン誕生の神話」をベースにしていますが、エルファバが魔女として覚醒する決定的なフックは、すでに一作目で完全に描き切られています。つまり本作のエルファバの物語は、ある種「エンディング後のエピローグ」のような性質を持っており、137分という上映時間に対して劇的な展開が少なく感じてしまう原因になっていたのです。

(C)Universal Studios. All Rights Reserved.

視点を変えれば大傑作に。本作の真の主人公は「残されたグリンダ」である

では、なぜ本作の評価が私の中で反転したのか。それは、「主人公をどこに置くか」という視点を変えたからです。 一作目が「エルファバが悪い魔女に落ちていくまでの物語」だとするなら、二作目である本作の真の主人公は間違いなく「グリンダ」です。

一作目でのグリンダは、持ち前の明るさと愛嬌で常に「正しい側」に立ち、ある種の自己欺瞞を抱えたまま生きてきました。そして二作目では、民衆から「希望の象徴」として見られることへの強迫観念に縛られています。みんなに愛され、波風を立てず、物事を美しく収める「善い魔女」を演じ続けなければならない。マダム・モリブルから与えられた機械仕掛けのシャボン玉のマシーンに乗って空を飛ぶ彼女の姿は、権力や空気に迎合してでも「善い自分のイメージ」を守ろうとする、痛々しいまでの自己犠牲の象徴です。

エルファバが「共通の敵」として権力に利用されたように、グリンダもまた「都合の良い偶像」として役割を演じさせられていました。 一作目で自分を抑えることをやめ、信念を貫いて空へ飛び立ったエルファバは、本作においてグリンダの「鏡」として機能しています。グリンダがエルファバと対立する描写は、単なる友とのすれ違いではなく、自分の中の「善性を演じてしまう偽善」との痛切な内面的闘争のメタファーにも感じます。 だからこそ本作は、一作目のように派手な外的運動ではなく、残されたグリンダが自身の抱える共犯性や虚構をどう引き受け、どう壊していくかという、極めて繊細で内的なドラマとして深く胸に突き刺さるのです。

前作のカタルシスと対をなすアンサーソング「The Girl in the Bubble」

この「グリンダが主人公になり直す映画」という視点を持つと、劇中の楽曲の意味合いが劇的に変わってきます。 ミュージカル映画における音楽は、単なる感情表現ではなく、物語を推進させる原動力でなければなりません。一作目の「Defying Gravity」が、エルファバが自分の殻を破り真の自分をさらけ出すための完璧なナンバーであったのに対し、本作では「The Girl in the Bubble(泡の中の少女)」がその完璧なアンサーソングとして響き渡ります。

守られているようで、実は「役割」という牢獄に閉じ込められているグリンダ。彼女がその泡(バブル)を自ら壊すまでの過程を描いたこの楽曲には、一作目を強烈に意識させる演出が隠されています。 グリンダがシャボン玉に向かって歩いていくと、そこに幼少期の自分の姿が映り込むシーン。これは、一作目の「Defying Gravity」で落下していくエルファバが、ビルの窓に映る幼い自分に向かって手を伸ばし、箒を握るシーンと全く同じ構図です。

エルファバが窓越しに幼少期の呪いと決別したように、グリンダもまたシャボン玉越しに自らの幻想と決別する。この対比の美しさに気づいたとき、私は本作が単なる後日談ではなく、グリンダが真の意味で自分をさらけ出すまでの、もう一つの偉大な誕生神話なのだと確信しました。

(C)Universal Studios. All Rights Reserved.

『オズの魔法使い』は必修!主人公ドロシーすらも「巻き込まれた側」という視点

本作をより深く味わう上で欠かせないのが、古典的名作『オズの魔法使い』の文脈です。 前作の時点でもイエロー・ブリック・ロードが出来上がるまでの描写など、知っていればニヤリとできる要素はありましたが、本作に関しては「必修レベル」と言って間違いありません。なぜなら、あの有名なドロシーの存在が、本作の底知れぬ恐ろしさを浮き彫りにするからです。

『オズの魔法使い』単体で見れば、ドロシーは自分の意思で旅をし、仲間を導く立派な主人公です。しかし『ウィキッド』の視点から彼女を見ると、全く違う景色が広がります。彼女の純粋な冒険は、すべて上層部が敷いた政治的・社会的な構造に綺麗に回収されているのです。 権力者は自分の手を汚すことなく、動物たちやエルファバを「敵」として設定し、物語を勝手に編集して民衆に信じ込ませます。ドロシーというカンザスの少女すらも、すでに加工され出来上がった「善悪の物語」のフレームの中に、上の力によって無理やり投入されただけの存在に過ぎません。

権力者によって編集された「作られた善悪」と犠牲者たちの悲劇

ドロシーが「主人公」ではなく「都合よく利用された駒」の一人にすぎないという現実は、この映画が描く最大の悲劇を浮き彫りにしています。エルファバは悪役を押し付けられ、グリンダは偽善の象徴を強いられ、そして妹のネッサローズまでもが、上層部によって勝手に整理された「作られた善悪」の犠牲者となっていくのです。

誰もが自分の意思で動いていると信じながら、実は見えない力によって分断され、下の人間同士で争わされている――。『ウィキッド 永遠の約束』は、単なる魔女たちの友情物語という枠を大きく超えています。権力によって都合よく編集された物語に、いかにして人が組み込まれ、消費されていくのか。本作は、そんな構造の恐ろしさを抉り出した、極めて現代的な政治ドラマとして完成されているのです。

まとめ

映画『ウィキッド 永遠の約束』は、一作目のエンタメ的な爆発力をそのまま期待すると、物語が内省的に進むため、初見では少しもやもやした感情を抱くかもしれません。 しかし、一作目がエルファバの飛翔を描いた「伝説の始まり」だとしたら、本作はその飛翔がどんな代償を生み、どんな虚構を世界に固定してしまったのかを整理する「苦い真実」の物語です。グリンダが偽りの善性を引き受けた苦しみの中から、本音へと近づいていく姿は、一作目とは全く違う種類の深い感動を呼んでくれます。

  • どんな気分で観る?:一作目の熱狂を少し冷まし、じっくりと思考を巡らせたい日に。
  • 向いている人:『オズの魔法使い』を知っている人。物事の裏側にある政治的な構造や、キャラクターの複雑な心理描写を読み解くのが好きな人。
  • 余韻:単純なハッピーエンドではない、善と悪の意味を永遠に問いかけられるような、深くて静かな余韻。

一作目は一作目で完璧。そして二作目は、グリンダが主人公になり直す映画として、独自の輝きを放っています。善と悪は誰が決めるのか。用意された役割を私たちは破ることができるのか。考えれば考えるほど新しい発見がある、見事な良作です。初見のもやもやが完全に晴れた今、さらに深い解釈を探しに、もう一度劇場へ観に行こうと思っています。

  • IMDb『ウィキッド 永遠の約束』
    キャストやスタッフの詳しい情報、ユーザーからの評価やレビューなどが充実しています。英語サイトですが、作品の撮影秘話やTrivia(トリビア)も多く、さらに深く知りたい方にはおすすめです。
  • この記事を書いた人

HAL8000

映画と猫をこよなく愛するブロガー。 多いときは年間300本以上の映画を観ていて、ジャンル問わず洋画・邦画・アニメ・ドキュメンタリーまで幅広く楽しんでいます。

専門的な批評はできませんが、ゆるっとした感想を気ままに書くスタンス。 ブリティッシュショートヘア×ミヌエットの愛猫ハルも自慢したいポイントで、レビューの合間に猫写真や日常もたまに紹介しています。

当ブログ「ねことシネマ」で、映画好き&猫好きの皆さんに楽しんでいただけると嬉しいです。
Filmarksはこちら → Filmarks

ぜひお気軽にコメントやリクエストをどうぞ!

-映画