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【ネタバレあり】映画『シザーハンズ』感想。大人になった今こそ号泣してしまう3つの理由とラストの解釈

映画『シザーハンズ』基本データ

  • 原題:Edward Scissorhands
  • 監督:ティム・バートン
  • 脚本:キャロライン・トンプソン
  • 主要キャスト
    • ジョニー・デップ(エドワード)
    • ウィノナ・ライダー(キム)
    • ダイアン・ウィースト(ペグ)
    • ヴィンセント・プライス(創造主)ほか
  • 公開年:1990年(アメリカ)、1991年(日本)
  • 上映時間:105分
  • 視聴方法

この記事でわかること

  • ティム・バートン最高傑作とも称される『シザーハンズ』の、大人になった今だからこそ響く魅力
  • 主人公エドワードと周囲の人々が織りなす「人間関係の難しさ」と「エゴイズム」
  • セリフを極限まで削ったジョニー・デップの「瞳」の演技の凄み
  • 名シーン「アイス・ダンス」と、ラストシーンに隠された構成の巧みさ

はじめに

こんにちは。当ブログ『ねことシネマ』へようこそ。

突然ですが、皆さんは映画『シザーハンズ』を最後に観たのはいつですか? 手がハサミの人造人間、パステルカラーの街並み、そして切ない雪……。誰もが一度は目にしたことのあるビジュアルだと思いますが、私自身、記憶の彼方にある「なんとなく素晴らしい映画だった」という印象だけで止まっていました。

そんな折、名作映画を映画館で再上映する「午前十時の映画祭」で本作がラインナップされているのを知り、居ても立ってもいられず、12月6日に劇場へ足を運びました。

久しぶりにスクリーンで対面した『シザーハンズ』。 結論から言うと、「こんなに素晴らしい映画だったんだ」と、震えるほどの感動を覚えました。

あらすじやビジュアルの奇抜さに隠れがちですが、そこには現代の私たちが抱える孤独や、社会との距離感といった普遍的なテーマが、恐ろしいほど精緻に描かれていました。今回は、再鑑賞して改めて気づいた本作の奥深い魅力を、私なりの解釈を交えて語っていきたいと思います。

あらすじ

※以下、ネタバレを含む可能性がありますのでご注意ください。

丘の上にそびえ立つ、古びたゴシック様式の屋敷。そこには、老発明家によって生み出された人造人間、エドワード(ジョニー・デップ)がたった一人で暮らしていました。彼は人間としてほぼ完成していましたが、急死した発明家が「手」を取り付ける前に息絶えてしまったため、両手は鋭利なハサミのまま残されてしまったのです。

ある日、化粧品のセールスで屋敷を訪れたペグ(ダイアン・ウィースト)は、孤独なエドワードを不憫に思い、彼を麓の街へと連れ帰ります。パステルカラーの家が立ち並ぶ平和な住宅街で、エドワードはペグの家族、そして美しい娘キム(ウィノナ・ライダー)と出会います。 最初は彼のハサミを気味悪がっていた住民たちも、彼がそのハサミで植木を芸術的な形に刈り込み、独創的なヘアカットを披露すると、一転して彼を人気者として持ち上げるようになりますが……。

作品の魅力

ここからは、私が今回の再鑑賞で特に心を揺さぶられたポイントを、いくつかの視点から掘り下げてみます。

「ヤマアラシのジレンマ」を描く大人の寓話

本作は「おとぎ話」の構造を持っていますが、その内実は非常にビターで、大人の心にこそ刺さる物語です。

最も象徴的なのは、やはりエドワードの「手」です。 彼は誰かを愛し、抱きしめたいと願っても、その鋭利なハサミで相手を傷つけてしまう。だからこそ、傷つけないために距離を置かなければならない。これはまさに、『新世紀エヴァンゲリオン』などで語られる「ヤマアラシのジレンマ」そのものではないでしょうか。

私自身、社会人として生活する中で「良かれと思ってしたことで相手を傷つけてしまった」「人との距離感が掴めずに孤立してしまった」という経験が少なからずあります。エドワードのハサミは、単なるファンタジーの設定を超えて、私たちが抱える「対人関係の不器用さ」や「コミュニケーション不全」という精神的な痛みを、物理的な形として可視化したメタファーのように感じられました。

(C)2025 20th Century Studios.

視覚的な対比が暴く「人間のエゴイズム」

今回スクリーンで観てハッとさせられたのは、映像設計の巧みさです。 エドワードが住む「闇に包まれたゴシック調の城」と、彼が連れて行かれる「パステルカラーの住宅街」。この二つの世界は、極端なまでに対照的に描かれています。

一見、明るい住宅街の方が「正常」で「幸せ」な世界に見えます。しかし、カメラが捉えるその風景は、どこか人工的で、均質化された不気味さを漂わせています。 住民たちは、最初はエドワードを「珍しい見世物」として歓迎し、彼のハサミが植木の手入れやヘアカットに役立つと分かると、こぞって彼を利用します。しかし、ひとたび彼が「危険だ」というレッテルを貼られるや否や、掌を返したように排除へと動くのです。

彼らが求めていたのは「エドワードという人格」ではなく、「消費できる便利な機能」や「退屈しのぎの刺激」でしかなかったのかもしれません。 「異質なものを、自分の都合の良い時だけ愛し、都合が悪くなれば切り捨てる」。そんな人間のエゴイズムや集団心理の残酷さが、パステルカラーの明るい映像の中で描かれるからこそ、より一層グロテスクに、そしてリアルに胸に迫りました。

ジョニー・デップの「瞳」が語る雄弁な沈黙

当時のジョニー・デップの、透き通るような美しさにも触れないわけにはいきません。 特筆すべきは、彼のセリフの少なさです。劇中、エドワードが発する言葉は極端に少ないのですが、その分、彼の感情はすべて「瞳」と「微細な表情」によって語られています。

初めて見るウォーターベッドに驚く子供のような仕草や、相手の言葉の意味を探ろうと彷徨わせる視線。それはまるで、サイレント映画の俳優のようです。 彼は社会のルールを理解していない「無垢な存在」だからこそ、周囲の大人たちの欺瞞や嘘を、その純粋な瞳で鏡のように映し出してしまう。そんな「語らない演技」の凄みに、改めて圧倒されました。

完璧な構成が生む「アイス・ダンス」と永遠の雪

そして、私が今回最も涙腺を刺激されたのが、物語のクライマックスにおける構成の美しさです。 特に、エドワードが庭で氷の彫刻を作り、その削りかすが雪となって舞い散る中でキムが踊る「アイス・ダンス」のシーン。

(C)2025 20th Century Studios.

ダニー・エルフマンの手による、長調とも短調ともつかない幻想的な音楽。そして、エドワードのハサミが「凶器」ではなく「美を生み出す道具」へと昇華される瞬間。 このシーンは単体でも美しいのですが、映画のラストで再び提示されることで、決定的な意味を持ちます。

物語は、年老いたキムが孫に語る回想形式で進みます。ラストシーン、孫に「彼はまだ生きているの?」と問われたキムは、「生きているわ。だって、雪が降っているから」と答えます。 彼が来る前、この街に雪は降らなかった。でも今は降っている。 エドワードは街を去りましたが、彼が削り続ける氷の欠片は「雪」となり、物理的な距離を越え、キムへと降り注ぎ続けているのです。

中盤の美しいシーンを、ラストで「二人の関係性が永遠に続く証」として再定義する。この完璧な構成には、思わず劇場で溜息が漏れました。

まとめ

映画『シザーハンズ』は、決してわかりやすいハッピーエンドではありません。エドワードは再び孤独な城へと戻り、キムとは二度と会うことはないでしょう。 しかし、これを単純な「悲恋」や「バッドエンド」と呼ぶことには抵抗があります。

なぜなら、エドワードはただ傷跡を残しただけでなく、「雪」という美しく、誰も見たことのない景色を街に残したからです。 「抱きしめることはできないけれど、雪を通じて繋がっている」。 この、「結ばれないからこそ美しい」という、日本的な「もののあはれ」や「切なさ」の美学に通じる結末こそが、本作が30年以上経っても私たちの心を捉えて離さない理由なのかもしれません。

もし、昔観たきりになっている方がいらっしゃれば、ぜひ今の年齢になってからもう一度観てみてください。若い頃とはまた違った、深く、冷たく、そして温かい感情が胸に去来するはずです。

あなたは、この映画のどんなシーンが心に残っていますか? エドワードの不器用な愛について、ぜひコメントで教えてください!

  • IMDb『シザーハンズ』
    キャストやスタッフの詳しい情報、ユーザーからの評価やレビューなどが充実しています。英語サイトですが、作品の撮影秘話やTrivia(トリビア)も多く、さらに深く知りたい方にはおすすめです。
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HAL8000

映画と猫をこよなく愛するブロガー。 多いときは年間300本以上の映画を観ていて、ジャンル問わず洋画・邦画・アニメ・ドキュメンタリーまで幅広く楽しんでいます。

専門的な批評はできませんが、ゆるっとした感想を気ままに書くスタンス。 ブリティッシュショートヘア×ミヌエットの愛猫ハルも自慢したいポイントで、レビューの合間に猫写真や日常もたまに紹介しています。

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