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【ネタバレなし】感想『ブルーボーイ事件』レビュー。法廷は「幸せ」を裁く〈劇場〉だった。

映画『ブルーボーイ事件』基本データ

  • タイトル: ブルーボーイ事件
  • 公開年: 2024年(日本公開:2024年11月14日)
  • 監督: 飯塚花笑
  • 主要キャスト:
    • 中川未悠(サチ)
    • 前原滉(若村篤彦)
    • 錦戸亮(狩野)
    • イズミ・セクシー(アー子)
    • 中村中(メイ)
    • 真田怜臣(ペティ) ほか
  • 上映時間: 106分
  • 視聴方法(2025年11月現在):
    • 全国の劇場で公開中

この記事でわかること

  • 映画『ブルーボーイ事件』のあらすじと基本情報
  • 予告編で印象的だった「裁判では幸せかどうかが問われた」という言葉の、私なりの解釈
  • 1960年代の日本で起きた「ブルーボーイ事件」とは何だったのか
  • 警察の「優生保護法違反」という摘発方法に、私が感じた「モヤモヤ」の正体
  • なぜ本作が「正義か悪か」の単純な二元論で語れない、苦しい法廷ドラマなのか
  • 本作が「考えるきっかけ」をくれる、今こそ観るべき社会派ドラマである理由

はじめに

こんにちは。当ブログ『ねことシネマ』へようこそ。 数ある映画ブログの中から、この記事を見つけてくださって本当にありがとうございます。

今回は、2024年11月14日に公開された、飯塚花笑監督の映画『ブルーボーイ事件』について、少しじっくりと語らせてください。

私がこの作品に興味を持ったきっかけは、行きつけのミニシアターで観た予告編でした。 「この事件の裁判では、”幸せか不幸か”が争点となり議論された。」 という強烈な字幕から始まる予告編に、「いったい、どういうことだろう?」と、強く心を掴まれました。

ただ、その時は「時間があったら観てみようかな」という程度でした。ですが後日、とあるラジオで本作が紹介されているのを偶然耳にし、「予告編も気になったし、そこまで言うなら」と決心。公開2日目に劇場へと足を運びました。

鑑賞後の率直な感想は、「観てよかった」という言葉に、ずっしりとした重りが乗っかるような感覚でした。 これは「面白かった!」と手放しで言える映画ではありません。むしろ、観ている最中も、観終わった後も、1965年(昭和40年)という時代に起きた「どうしようもない理不尽」について、ずっと考えさせられる…。 ですが、決して暗い気持ちで終わるのではなく、人間の「誠実さ」を問われるような、今こそ観るべき社会派ドラマだと感じました。

そもそも、『ブルーボーイ事件』というタイトルを聞いて、すぐに「あの事件だ」とわかる方は、今の時代、そう多くはないのではないでしょうか。恥ずかしながら、私もこの事件について全く知りませんでした。

この記事では、厳密な意味での「ネタバレ」はなるべく避けつつも(実話なので史実を調べることはできますが)、私がこの映画を観て何を感じ、何を考えさせられたのか、その「魂」の部分に触れていきたいと思います。

あらすじ

※本記事は映画『ブルーボーイ事件』の結末(判決)に関する具体的なネタバレはありませんが、物語の核心である「史実(事件の背景)」に触れています。

1965年、オリンピック景気に沸く東京。 警察は街の「国際化」に伴い、売春の取り締まりを強化していました。しかし、性別適合手術(当時は「性転換手術」と呼ばれた)を受けた「ブルーボーイ」と呼ばれるトランスジェンダー女性たちの存在に頭を悩ませます。

戸籍は男性のまま、女性として売春をする彼女たちは、当時の売春防止法(戸籍上の「女性」が対象)では摘発することができなかったのです。

そこで警察は、ある強引な手段に出ます。 生殖を不能にする手術(=性別適合手術)が「優生保護法」に違反するとして、彼女たちに手術を施した医師・赤城を逮捕し、裁判にかけることにしたのです。

一方、東京の喫茶店で働くトランスジェンダー女性のサチは、恋人にプロポーズされ、ささやかながらも幸せの絶頂にいました。 そんなある日、赤城の弁護を担当する弁護士・狩野がサチのもとを訪れます。 実はサチもまた、赤城医師による性別適合手術を受けた過去があったのです。

「赤城先生の裁判に、証人として出廷してほしい」

その依頼は、サチが必死に守ってきた「普通の幸せ」を、根底から揺るがすものでした……。

作品の魅力

ここからは、私が本作を鑑賞して特に心を揺さぶられたポイントや、個人的な解釈について、少し深く掘り下げていきたいと思います。

不謹慎ながら興味を引かれた、事件の「攻め方」

まず私がこの事件を知って最初に感じたのは、警察の摘発方法に対する、ある種の「純粋な興味」でした。

売春防止法で裁けないから、彼女たちの「存在」そのものを可能にした医師を、「優生保護法違反」という別の法律で裁こうとする。 いわば法律の穴を突くような、「こちらがダメなら、あちらで」という発想の転換に、不謹慎ながら「そういう攻め方をするのか」と驚いてしまいました。

もちろん、これは決して笑える話ではありませんし、すぐに大きな「モヤモヤ」とした疑問に変わりました。 順序が違います。医師の医療行為と、売春の取り締まりは、本来まったく別の問題のはずです。警察のやりたいことは理解できても、「それはどう考えてもおかしいのではないか」と。

この映画は、私にとってそんなモヤモヤとした疑問から幕を開けました。 そして、物語が進むにつれて気づかされたのは、この「モヤモヤ」の正体です。これは単なる「強引な法解釈」というレベルの話ではありません。 1964年の東京オリンピックを終え、「国際化」「発展」という光の裏で、社会にとって「望ましくない」とされた人々を排除しようとする「浄化」の動きがあったこと。そして、トランスジェンダーという存在そのものを「(種の保存に反する)不必要な存在」とみなす「優生思想」。この恐ろしい社会構造こそが、理不尽な摘発を可能にしてしまった……。私の「モヤモヤ」の正体は、きっとここにあったのです。

「正義か悪か」では語れない、法廷という場所の苦しさ

本作は、実話に基づく社会派ドラマですから、脚本の奇抜さで驚かせたり、物語が二転三転したりするような作品ではありません。 ただ、私が個人的に「観てよかった」と感じた最大の理由は、どの登場人物にもそれぞれの言い分があり、観客がそれぞれに感情移入できてしまう点にあります。

だからこそ、観ていて非常に苦しくなります。

主人公として描かれるトランスジェンダー女性のサチ。 心と身体の性が一致しないことは、本人が望んだことではありません。それでも、ありのままの自分ごと愛し、幸せになる権利は誰にでもあるはずです。 そう考えた時、性別適合手術は、ごく自然な選択肢の一つだったでしょう。それを「優生保護法違反」という、こじつけのような暴論で裁こうとすること自体が、許されざる人権侵害ではないか。

しかし、法廷とは、本来「何が正義で、何が悪か」を天秤にかける場所です。 この「ブルーボーイ事件」は、そんな単純な二元論では到底片付けられません。たまたま持って生まれた特性を、「正義か悪か」という型にはめて議論しなければならない。

私が本作から強く感じたのは、この事件の裁判が、もはや法的な正しさを争う場ではなく、ある人間の「“幸せか不幸か”」という、本来なら法が絶対に裁いてはいけない「人間の尊厳」そのものを審議する、異様な〈劇場〉と化してしまっていた、という事実です。 この構造的な難しさが、鑑賞中ずっと頭の中にあり、モヤモヤと考えさせられました。

「あなたは今、幸せですか?」——問いが内包するもの

そして、私が予告編で最も惹かれた、あの問い。 劇中の裁判の最後、サチは裁判官からこう質問されます。

「あなたは今、幸せですか?」

法廷で、人生の根幹に関わる、あまりにも個人的で、あまりにも残酷なこの質問。 彼女がどう答えたかは、ぜひ劇場で確かめていただきたいです。

私がその答えを聞いて感じたのは、「ああ、そうだよね」という、深い腑落ちでした。 それは、単純な「はい」か「いいえ」では到底表せない、トランスジェンダー女性たちが抱える複雑な感情や、その性質を持って生まれた方々の様々な思いを内包した、あまりにも誠実な「答え」でした。 私個人としては、このやり取りを観られただけでも、この映画を観た価値があったと感じています。

主人公を取り巻く人々の「強さ」と「葛藤」

本作はサチに焦点が当たっていますが、彼女を取り巻く人々も非常に魅力的で、物語に深みを与えています。

個人的には、手術を施した医師・赤城も「裏の主人公」だと感じました。 心と身体の性が一致しない方々が、ありのままの姿になるための手助けをする。それは医師として当然の行為であり、裁かれるべきことなのか。彼の持つ一種の哲学にも、深く共感させられました。

また、サチを弁護する狩野弁護士を演じた、錦戸亮さんの存在も素晴らしかったです。 今でこそ「多様性」という言葉が聞かれますが、1965年当時に、トランスジェンダーの方々に真っ向から向き合い、寄り添い、味方であり続けたその「強さ」。

ただ、本作が巧みだと感じたのは、彼を単なる「完璧な正義の味方」として描いていない点です。 彼は善意の人ですが、それゆえに、自らの「無自覚さ」や「マジョリティ性」によって、かえってサチたちを傷つけてしまう場面も描かれます。 露骨な差別主義者だけでなく、こうした「善良で無知な多数派」の葛藤と、そこからの「無理解から理解へと至る成長」をも丁寧に描く。この複眼的な視点こそが、本作に単純な善悪二元論では語れない、ヒューマンドラマとしての圧倒的な深みを与えていると感じました。

まとめ

ブログで語るには、少し慎重になってしまうテーマかもしれません。(そう感じてしまうこと自体が、まだこの社会に課題があるということの表れなのかもしれませんが…)

『ブルーボーイ事件』は、約60年前の昭和の実話を描いた作品です。 しかし、鑑賞後に私が抱いたのは「これは遠い過去の話ではない」という強烈な感覚でした。 「多様性」という言葉が日常的に聞かれるようになった一方で、今でもSNSなどでは、性的マイノリティの方々に対する心ない言葉や、その尊厳を脅かすような議論を目にすることがあります。

1965年の法廷で問われた「人間の尊厳」は、2025年の今を生きる私たちにも、地続きの問題として突きつけられています。

この映画は、私たちに貴重な「考えるきっかけ」をくれる、素晴らしい作品です。 当ブログでは、普段はもっと気軽に楽しめるエンターテイメント作品を紹介することも多いですが、たまにはこうした社会派ドラマにじっくりと触れ、自分の内側にあるものと向き合ってみるのも、とても豊かな映画体験だと思います。

重いテーマではありますが、決して突き放すような冷たさはなく、最後には人間の「誠実さ」を信じさせてくれる力強さがあります。

週末、もし少し心の体力があるならば、この映画が投げかける「真っ直ぐな視線」を受け止めに行ってみませんか? ご自身の「幸せ」について、きっと深く考える時間になるはずです。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。 皆さんはこの映画を観て、何を感じましたか? もしよろしければ、皆さんのご感想もコメント欄などで教えていただけると嬉しいです。

  • この記事を書いた人

HAL8000

映画と猫をこよなく愛するブロガー。 多いときは年間300本以上の映画を観ていて、ジャンル問わず洋画・邦画・アニメ・ドキュメンタリーまで幅広く楽しんでいます。

専門的な批評はできませんが、ゆるっとした感想を気ままに書くスタンス。 ブリティッシュショートヘア×ミヌエットの愛猫ハルも自慢したいポイントで、レビューの合間に猫写真や日常もたまに紹介しています。

当ブログ「ねことシネマ」で、映画好き&猫好きの皆さんに楽しんでいただけると嬉しいです。
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