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映画『トイ・ストーリー5』感想・レビュー|4を肯定してきた私が、それでも4のほうを選ぶ理由

※この記事は『トイ・ストーリー5』および『トイ・ストーリー4』の結末・重要な展開に触れます。ネタバレを避けたい方はご注意ください。

まず結論から

『トイ・ストーリー5』は、間違いなく良作です。

観終わった直後の私は、かなり満足していました。ちゃんと面白かったし、シリーズの新作としても丁寧に作られている。ジェシーに光を当てたことも、タブレットという現代的な題材を持ち込んだことも、続編としてはかなり正しい選択だったと思います。

ただ、帰り道に残ったのは、他の4作ほど深く届かなかった、という感覚でした。

優等生の続編としては、かなり高得点です。けれど、私は『トイ・ストーリー4』の変化球を肯定してきた側の人間なので、5のまっすぐな作りには、少しだけ物足りなさも残りました。

この記事では、『トイ・ストーリー5』が何をやった作品なのか。そして、なぜ私はそれでも4のほうを選ぶのかを書いていきます。

作品情報

  • 公開日:2026年7月3日
  • 監督:アンドリュー・スタントン
  • 共同監督:ケナ・ハリス
  • 脚本:アンドリュー・スタントン、ケナ・ハリス
  • 製作:リンジー・コリンズ
  • 声の出演:トム・ハンクス、ティム・アレン、ジョーン・キューザック、グレタ・リー、コナン・オブライエン、トニー・ヘイル ほか
  • 上映時間:102分
  • 配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン

ネタバレなしで言えること

『トイ・ストーリー5』は、ボニーのもとにタブレット型デバイス〈リリーパッド〉がやってくることで、おもちゃたちの存在意義が揺らぐ物語です。

大きなテーマは「おもちゃ対テクノロジー」。スマホやタブレットに子どもの時間が奪われていく現代に、おもちゃはまだ必要なのか。そこに『トイ・ストーリー』シリーズらしい問いを重ねています。

今回、物語の中心にいるのはジェシーです。ウッディとバズももちろん登場しますが、体感としては、今作はかなりジェシーの映画でした。『トイ・ストーリー2』で描かれた彼女の過去を、現在のボニーの状況と重ね直しているところが大きな見どころです。

監督は『ファインディング・ニモ』『ウォーリー』『ファインディング・ドリー』などのアンドリュー・スタントン。ピクサー初期からシリーズに関わってきた人物が、今回は本編の監督として『トイ・ストーリー』に向き合っています。

刺さる人/合わない人

刺さるのは、1・2・3で描かれてきた「おもちゃの物語」の続きを、もう一度ちゃんと見たかった人だと思います。

4のラストが受け入れ難かった人。ウッディの選択に納得できなかった人。ジェシーというキャラクターにもう一度光が当たるのを待っていた人。そういう人にとって、5はかなり誠実な続編になっています。

一方で、ピクサーに毎回「え、そこに行くのか」という驚きを期待している人には、少し物足りないかもしれません。

4のように、シリーズを内側から揺らす作品を期待していると、5はかなり優等生に見える。私がまさにそうでした。

5がやったのは、「シリーズ性の回復」だった

観終わってまず思ったのは、5は『トイ・ストーリー』をもう一度「おもちゃの物語」に戻す作品だった、ということです。

1作目は、「おもちゃにも世界がある」という発明でした。世界初の長編フルCGアニメーションという技術的な意味でも画期的でしたが、それ以上に、「子どもが部屋を出たあと、おもちゃたちは何をしているのか」という想像を、一本の映画として成立させたことがすごかった。

2作目は、その発明を使って、いきなり「おもちゃとして生きるとは何か」まで踏み込みます。ジェシーの回想「When She Loved Me」は、シリーズ全体でも屈指の名場面だと思っています。持ち主が成長したとき、おもちゃはどうなるのか。その残酷さを、あの短い場面だけで突きつけてくる。

3作目は、その問いに対する答えでした。アンディが大人になり、おもちゃたちはボニーへ受け継がれる。おもちゃとしての役目を、別の子どもへ渡していく。三部作としては、あまりにも完璧な幕引きでした。

そして4作目は、そこからさらに先へ行ってしまった作品です。

ウッディが「おもちゃとしての生き方」から降りる。誰かの持ち物であることから離れ、自分で自分の居場所を選ぶ。あれは『トイ・ストーリー』というシリーズにとって、かなり危うい変化球でした。

だから5は、そのあとにもう一度、「やっぱりおもちゃは子どもに必要なのだ」という地点へ戻ってきたのだと思います。

これは、続編として正しい選択だったと思います。誰が観ても分かりやすいし、シリーズの名前にもふさわしい。『トイ・ストーリー』とは、やはり「おもちゃの物語」なのだと確認し直す作品になっていました。

ただ、私はそこに少し物足りなさを感じてしまいました。

でも私は、4の変化球のほうが好きだった

先に立場をはっきりさせておくと、私は『トイ・ストーリー4』を肯定している側の人間です。

もちろん、『トイ・ストーリー』は3で終わっていてもよかったと思っています。あのラストは完璧でした。だから、4に対して「蛇足だ」と感じる人の気持ちも分かります。

でも、作られたからには、その作品が何を描こうとしたのかを見たい。映画好きとしては、そこを避けて通れない。

4が描いたのは、「子どもに必要とされなくなったあと、ウッディはどうするのか」でした。

2のジェシーは、持ち主が大人になってしまったことで捨てられた。残酷ではあるけれど、ある意味では順当な現実です。一方で4のウッディは、ボニーにそこまで必要とされていない。アンディから託されたはずなのに、ボニーの部屋での居場所を失っている。

ここがかなり嫌なところです。子どもは無邪気に飽きる。大人が思うほど、受け継がれたものに意味を見出してくれるとは限らない。

それでもウッディは、「おもちゃは子どものためにある」という使命感にしがみつく。フォーキーを救おうとする行動も、もちろんフォーキーのためではあるけれど、同時に自分の存在意義を延命させる行為にも見える。

だからこそ、ボー・ピープの「迷子になっているのはあなたの方よ」という言葉が効いてくる。

4における「迷子のおもちゃ」は、単に持ち主を失ったかわいそうな存在ではありません。物語が進むにつれて、その意味は反転していきます。迷子とは、誰かの所有物ではなくなった存在でもある。ウッディはそこで、自分の人生を自分で選ぶ可能性に出会う。

私は、そこがすごく映画的だと思うのです。

3までで積み重ねられてきたウッディ像があるからこそ、4のラストは生きてくる。おもちゃとしての誇り。仲間を大切にするリーダーとしての姿。アンディへの思い。それらを全部背負ったウッディが、それでも最後に別の生き方を選ぶ。

これは確かに、賛否が出る展開です。でも私は、そこに強く惹かれました。

5は、その4のあとに作られた作品です。だからこそ、私はもう一段階先の変化を期待してしまった。でも実際の5は、変化球ではなく正球で来た。そのことが、私には少し物足りなかったのです。

ピクサーの「思いもよらない着地」がなかった

5でいちばん惜しいと感じたのは、「おもちゃ対テクノロジー」というテーマの落とし方です。

現代の街を歩けば、スマホやタブレットで遊ぶ子どもをいくらでも見かけます。ショッピングモールのベンチでゲームをしている子どももいる。家でも外でも、画面が子どもの時間を奪っている。

そういう時代に、おもちゃの存在意義をもう一度問い直す。タブレットを実質的なヴィランとして置く。その狙いはとても分かります。

だからこそ、ピクサーならもっと意外なところへ連れていってくれるのではないかと期待していました。

『レミーのおいしいレストラン』は、料理のできない青年と天才料理人のネズミによるサクセスストーリーに見えて、最後は批評家アントン・イーゴの物語として着地する。

『インサイド・ヘッド』は、感情たちをキャラクター化するだけで終わらず、「悲しみ」も人間にとって必要な感情なのだというところまで行く。

『ソウルフル・ワールド』も、生きる意味をきれいな言葉でまとめるのではなく、日常そのものの手触りへ落としてくる。

ピクサーには、そういう「そこに着地するのか」という驚きがあります。

でも5の結論は、かなりまっすぐでした。そうだよね、と思える。間違ってはいない。むしろ正しい。ただ、驚きは少ない。

落とすべきところに、きれいに落とした。批判の出にくい場所へ着地した。そんな印象がありました。

ここは私が期待しすぎたのだと思います。ただ、それを差し引いても、5には「思いもよらない着地」の快感があまりありませんでした。

ジェシーの過去のリフレインは巧い。ただ、その先が薄い

5で一番うまいと思ったのは、ジェシーの過去とボニーの現在を重ねたところです。

ボニーは友達がなかなかできない。親はそれを心配する。周りの子どもたちはタブレットを持っている。だから、ボニーにもリリーパッドが与えられる。

ボニーはタブレットに夢中になり、おもちゃたちに目を向けなくなっていく。そこでジェシーの中に浮かぶのは、「自分はまた捨てられてしまうのではないか」という不安です。

かつてエミリーに置いていかれたジェシー。今、ボニーに置いていかれそうになっているジェシー。この重ね方は、とても巧いと思いました。

『トイ・ストーリー2』の「When She Loved Me」以降、ジェシーの傷はシリーズの中でそこまで深く掘られてきませんでした。だから、5でそこに戻ること自体はかなり納得できます。

ウッディが4でああいう選択をした以上、次に物語の中心へ立つキャラクターとして、ジェシーはとても自然です。テクノロジーによっておもちゃの立場が揺らぐという現代的な問題と、かつて持ち主に捨てられたジェシーの傷が重なる。設定の噛み合わせは、さすがにうまい。

ただ、私が強く惹きつけられたのは、そこまででした。

問題提起はうまい。入口もいい。けれど、そこから結末までの展開に、あまり見入ってしまう瞬間がなかったのです。

語ろうとしても、「あのシーンが本当に良かった」とすぐに出てくる場面が少ない。これは自分の中ではかなり大きいです。良い映画を観たあとには、具体的な場面が勝手に残るからです。

1作目なら、バズがテレビCMを見て自分が本物のスペース・レンジャーではないと知る場面。2作目なら、「When She Loved Me」や、アルのトイ・バーンでのドタバタ。3作目なら、サニーサイドからの脱出や、焼却炉の場面。

5にも良い場面はあります。でも、映画としてのワクワクや、次に何が起こるのか分からない楽しさは、私には少し弱かった。

構造の問題もあると思います。

冒頭から、ジェシーたちの本筋とは別に、バズ・ライトイヤー軍団のラインが走ります。あの50体のバズは設定としては面白いし、絵としても楽しい。ただ、感情移入が乗り切っていないぶん、ジェシーの物語のテンポを少し削いでいるようにも感じました。

ウッディの合流も、良くも悪くもあっさりしています。出てきてくれること自体はうれしい。でも、この物語にウッディがどうしても必要だったかと言われると、少し迷う。ブランドとして出さない選択肢はなかったのだろうな、という作り手側の事情を、少し感じてしまいました。

終盤、ジェシーの過去に関する新しい情報が明かされる場面は、正直に言うと泣きました。かなり泣きました。周りに気づかれないように泣こうとしたくらいには泣いた。

でも、あの涙に至る積み重ねが十分だったかというと、そこは少し引っかかっています。

じわじわ積み上がった感情が爆発したというより、強い情報を急に出されて、瞬間的に泣かされた感覚に近い。泣いたことは事実です。でも、泣かされたからといって、手放しで満足できるわけではありませんでした。

5を観て、4がより深く見えてきた

ここまでかなり厳しいことを書いてきましたが、5を観たことで、4がより深く見えた部分もあります。

5の終盤で、おもちゃは子どもが寄り添ってほしいときに寄り添えばいい、というような意味のセリフが出てきます。あの言葉は、5の主題を締めるセリフとして機能しています。

ただ私の中では、むしろ4のウッディの選択に効きました。

ウッディは、アンディに寄り添った。ボニーにも、短い時間ではあったけれど寄り添った。なら、それでいいのではないか。ずっと同じ場所にい続けることだけが、おもちゃの役目ではないのではないか。

5は、4でウッディが選んだ道を、別の角度から肯定してくれた作品でもあるのかもしれません。

そう考えると、5を観たあとに4を観直すのは、かなり面白い体験になると思います。

私は5が嫌いなわけではありません。むしろ、かなり良かったと思っています。『トイ・ストーリー』シリーズは、そもそも全体の水準が異常に高い。その中で比べると、私には5が一番刺さり切らなかった、というだけです。

他の映画と比べれば、間違いなく良作です。

ただ、そのうえで私はやっぱり、4の変化球のほうを選びます。

3までで築いてきた「おもちゃの物語」があったからこそ、そこから降りるウッディの選択が胸に響いた。賛否が分かれるのも分かる。でも私は、あの危うさも含めて4が好きです。

5は良くも悪くも、無難な優等生でした。誰が観ても良い作品だと思える。けれど私が『トイ・ストーリー』に期待していたのは、1・2・3で見せてきた三部作としての完璧さや、4で見せてきた攻めの姿勢でした。

映画として良いものは、観終わったあとにどれだけ語れるかだと思っています。

「あれは正しかったのか」
「あの選択はキャラクターに合っていたのか」
「あのラストはシリーズへの裏切りなのか、それとも更新なのか」

そうやって考え続けられる映画が、私は好きです。

5は優等生であるがゆえに、議論の余地がそこまで大きく残らない。そこが、私が5より4のほうを選ぶ理由です。

今回は字幕版で観た

今回、『トイ・ストーリー』を劇場で字幕版で観るのは初めてでした。

理由はいくつかありますが、一番大きかったのは、落ち着いて観たかったからです。

ディズニーやピクサーの人気作を公開初日の仕事終わりに吹替版で観ると、どうしても客層がにぎやかになることがあります。もちろん全員がそうではありません。ただ、地元の映画館では、上映前からかなり賑やかだったり、エンディングに入った瞬間に話し出したりすることが何度かありました。

こちらとしては、エンドロールまで含めて余韻に浸りたい。映画館は、非常灯がつくまでが上映中だと思っています。

今回も、エンドロールでテイラー・スウィフトの「I Knew It, I Knew You」が流れます。あの曲は本当に良かった。映画を観終わったあと、あの曲を聴きながら考えを巡らせる時間も含めて、劇場体験だったと思います。

だから、その余韻を壊されたくなかった。

字幕版でも、エンディングで曲が流れ始めた瞬間に話し出す人はいました。字幕版を選べば必ず静か、というわけではありません。それでも、吹替版よりはかなり落ち着いて観られました。

もうひとつ理由があります。

私は最近、noteで「英語音声で日本語字幕なしで映画を最後まで観るための予習ノート」を書き始めました。その流れで、『トイ・ストーリー』シリーズを1から4まで英語音声で見返していたのです。

だから5も、自然に字幕版で観たいと思えました。トム・ハンクスのウッディ、ティム・アレンのバズ、ジョーン・キューザックのジェシー。原音で聴くと、やはりキャラクターの温度が違います。

もちろん、唐沢寿明さんのウッディにも、所ジョージさんのバズにも、慣れ親しんだ魅力があります。吹替版の良さは間違いなくあります。

ただ、落ち着いて観たい人。原音のニュアンスを味わいたい人。字幕に抵抗がない人。そういう人には、字幕版もかなりおすすめできます。

まとめ

『トイ・ストーリー5』は、シリーズをもう一度「おもちゃの物語」に戻す作品でした。

ジェシーを中心に置き、タブレットという現代的な脅威を持ち込み、子どもとおもちゃの関係を改めて描く。続編としてはとても正しいし、丁寧です。観ておいて損はありません。

ただ、4を肯定してきた私にとっては、他の4作ほど深く届かなかったのも正直な感覚です。

5は良作です。かなり良い映画です。けれど、私はやっぱり4のほうを選びます。

3までで築かれた「おもちゃの物語」があったからこそ、そこから降りるウッディの選択が胸に響いた。あの賛否の分かれる変化球に、私は映画としての面白さを感じました。

5は、シリーズをきれいに整え直した作品です。

でも私は、少し歪で、少し危うくて、それでもウッディが自分の生き方を選んだ4のほうに、より強く惹かれています。

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HAL8000

映画と猫をこよなく愛するブロガー。 多いときは年間300本以上の映画を観ていて、ジャンル問わず洋画・邦画・アニメ・ドキュメンタリーまで幅広く楽しんでいます。

専門的な批評はできませんが、ゆるっとした感想を気ままに書くスタンス。 ブリティッシュショートヘア×ミヌエットの愛猫ハルは、当ブログの看板猫です。 映画を語ることはありませんが、今日も元気に過ごしています。

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