※前半はネタバレなしです。区切り線から先は、物語の仕掛けと結末まで触れています。
2026年10月11日、アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督の新作『DIGGER/ディガー』を観てきました。
このブログを更新するのは、1か月以上ぶりです。
その間も映画館には足を運んでいたのですが、なかなか記事を書く気になれずにいました。
そんな私に、久しぶりに「この映画について書きたい」と思わせてくれたのが本作でした。
Rotten Tomatoesの批評家スコアは、10月11日時点で53%。賛否が割れるのも、観ていてよく分かりました。
それでも、観終わってからいろいろなことを考え、こうして語りたくなった映画です。
最初は権力者の愚かさを笑うブラックコメディだと思っていたのに、いつの間にか、そもそも人はなぜ映画を観るのかという問いに変わっていく。そして最後には、映画を観ている私たち自身が問いかけられる。
「ああ、面白かった」で終わる映画ではありません。
何より、映画館でこそ味わってほしい仕掛けがあります。
観るなら、ぜひ劇場で。
『DIGGER/ディガー』作品情報
- 公開日
- 2026年10月9日
- 原題
- Digger
- 監督
- アレハンドロ・G・イニャリトゥ
- 脚本
- アレハンドロ・G・イニャリトゥ、アレクサンダー・ディネラリス、ニコラス・ヒアコボーネ、サビーナ・バーマン
- 出演
- トム・クルーズ、リズ・アーメッド、ジョン・グッドマン、ザンドラ・ヒュラー、マイケル・スタールバーグ、ジェシー・プレモンス ほか
- 上映時間
- 129分
- 配給
- 東和ピクチャーズ、東宝
- 視聴方法(2026年10月現在)
- 全国の劇場で公開中
予告編を観ても何の映画か分からない。それで正解だった
石油採掘会社のCEOとして君臨する、傲慢な権力者ディガー・ロックウェル。
己の利益しか考えない彼の行動によって、地球は滅亡の危機に陥ります。
大統領から事態の収拾を命じられたディガーは、世界を救うべく立ち上がる――。
公式のあらすじは、おおむねこれだけです。
世界を救うといっても、どうやって救うのか。そもそも何をする映画なのか。
正直、これでは全然見えてきません。
予告編も特殊でした。
本編の内容よりも、トム・クルーズの歴代出演作やキャリア、トム・クルーズという俳優そのものに焦点を当てた、予告編らしくない予告編まで公開されていました。
ここまで中身を伏せて宣伝された作品は、珍しいと思います。
ただ、観終わってみると、伏せていた理由がよく分かります。
監督は、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』や『レヴェナント:蘇えりし者』を手がけたアレハンドロ・G・イニャリトゥ。
その新作に、トム・クルーズが主演する。
私が観に行った理由も、結局はそこでした。
批評家の評価があまり高くなかったので、正直、不安はありました。それでも映画は自分の目で確かめたい。
公開2日後の10月11日、劇場へ行きました。
答えを渡してくれる映画ではない
この映画は、観客それぞれに考えることを求めてきます。
問いは次々に投げてくるのに、答えは簡単には教えてくれません。
観終わってから考える時間を楽しめる人には、語りがいのある一本です。
一方で、すっきりした答えを持ち帰りたい日には、あまり向いていないと思います。
そして、個人的に強く勧めたいのは劇場での鑑賞です。
映画の終わり方に、観客自身を巻き込む仕掛けがあります。
自宅のテレビでも映像や音は再現できるでしょう。でも、映画館で体験するのとは、受け取り方が大きく変わる演出だと思いました。
まだ観ていない方は、いったんここで読むのをやめて、まずは映画館へ。
観終わったら、また戻ってきてもらえたらうれしいです。
ここから先は、物語の仕掛けと結末まで触れます。
先に書いておくと、ここから先は正解を示すための「解説」ではありません。
私自身、この映画への明確な答えを持っているわけではないからです。
観て、感じて、考えたことを整理しておきます。
最初は『博士の異常な愛情』のつもりで笑っていた
ディガーの会社が極地で進めていた石油採掘をきっかけに、巨大な氷の塊が海へ流れ出し、世界規模の災害を引き起こしかねない事態になります。
前半で描かれるのは、その危機を前にした権力者たちの振る舞いです。
ディガーも大統領も、互いに責任をなすりつけ合い、口では立派なことを言いながら、自分たちの利益ばかり考えている。
その無責任さと滑稽さが、ブラックコメディとして続いていきます。
鑑賞中、最初に頭に浮かんだのは『シン・ゴジラ』でした。
未知の脅威を前にした政治家や官僚の振る舞いを、滑稽さも交えて描くところは、よく似ています。
ただ、『シン・ゴジラ』は物語が進むにつれて、それぞれが自分の役割を引き受け、制度や組織の中で知恵を絞って危機に立ち向かっていきます。
最後には「この国はまだまだやれる」と思わせてくれる映画です。
『DIGGER』には、なかなかそういう展開が訪れません。
権力者たちはひたすら愚かで、風刺が続いていきます。
そこで次に思い浮かんだのが、スタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』でした。
政治や軍事に携わる人間の愚かさを、とことんブラックなユーモアで描いた作品です。
イニャリトゥが『博士の異常な愛情』を現代に作り直したのかもしれない。
序盤は、そう思いながら観ていました。
ところが物語は、途中で大きく向きを変えます。
あの猫と、動かないカメラの意味が途中で変わった
それまで観ていたディガーの物語は、劇中で上演するために作られた演劇でした。
しかも、トム・クルーズが演じていたのはディガー本人ではなく、ディガーという役を演じる俳優カーティス・マークソンだったのです。
現実の出来事として観ていたものが、舞台の上の出来事だったと分かった瞬間、映画の見え方ががらりと変わりました。
同時に、それまで引っかかっていた二つの違和感が、一気に腑に落ちました。
一つ目は、ディガーの飼っている猫です。
予告編の時点から気になっていました。
ずいぶん高齢に見える猫なのですが、動きも表情もぎこちなくて、言ってしまえば少し気持ち悪いくらいでした。
今の映像技術なら、もっと自然な猫を表現できるはずです。
なぜあえてこんな不自然な猫を出すのか、ずっと疑問でした。
でも、劇中劇だと分かってから、見方が変わりました。
あの猫は、私たちが最初に思っていたような「映画の世界に生きる猫」ではなく、舞台の上で表現された猫として見せられていたのではないか。
そう考えると、あの機械仕掛けのようなぎこちなさにも、納得がいきます。
二つ目は、カメラワークです。
特に前半は、構図をきっちり決めて、その中で人物たちが動く場面が印象に残っていました。
人物を追いかけるというより、少し距離を置いて、その場全体を眺めているような感覚です。
劇中劇だと分かると、あの視点は、劇場で舞台を観ている観客の目線にも思えてきます。
もちろん、映画全体のカメラワークをそう説明できるわけではありません。実際、舞台であることが明かされる場面では、カメラそのものの動きが重要な役割を果たします。
ただ私には、引っかかっていた演出が、種明かしの瞬間に一つにつながったように感じられました。
単に観客を驚かせるためのどんでん返しではありません。
振り返ったときに、それまでの違和感に新しい意味が生まれる。
だとすれば私たちは、最初から客席に座って舞台を観ていたことになります。
悲劇から、なぜ笑いが生まれるのか
トム・クルーズといえば、『トップガン マーヴェリック』をはじめ、格好いいヒーローを演じてきた俳優です。
その彼が欲深い石油王を演じ、権力者の愚かさを笑うブラックコメディ。
そう思って観ていました。
ところが、劇中劇だと分かったあとも、まだ大きな仕掛けが残されていました。
舞台で描かれていた大災害は、その世界で過去に実際に起きた出来事をもとにしていたのです。
つまり、私たちが笑って観ていた物語は、未来の人々が自分たちの過去の悲劇を演劇にしたものでした。
彼らはすでに、ディガーが引き起こした災害の後の世界を生きています。
そこで作り手の一人が、過去の悲劇を笑いに変えることの意味を語ります。
ここで、この映画の主題がようやく見えてきた気がしました。
芸術はなぜ生まれるのか。人はなぜ劇場に足を運ぶのか。
『ハムネット』と同じ問いを、別の温度で
ここで思い浮かべたのが、2026年に観たクロエ・ジャオ監督の『ハムネット』です。
私の中では、2026年のベスト3に入ると思っている一本です。
『ハムネット』は、息子を失ったシェイクスピアと、その妻の悲しみを描いた物語です。
映画では、シェイクスピアが亡くなった息子への思いを重ねるようにして書いた『ハムレット』を、妻が劇場で観ることになります。
そこで、個人の中に閉じ込められていた悲しみが、演劇を通じて周囲の人々と共有されていく。
芸術には、人の悲しみを癒す力があるのだと思います。
もちろん、どれほど素晴らしい演劇を観ても、息子を失った現実は変わりません。
芸術に、起きたことをなかったことにする力はない。
それでも、芸術に触れることで、その現実を生きていく人間のほうは変わることができる。
そこに希望がありました。
そして『ハムネット』は、何世紀も愛され続ける戯曲が、どんな感情や経験から生まれるのかまで描いた映画だったと思います。
『DIGGER』にも、よく似たものを感じました。
『ハムネット』では、息子を失った悲しみが『ハムレット』を生む源として描かれます。
『DIGGER』では、大災害の記憶が、演劇を生むきっかけになっている。
ただ、そこにあるのは悲しみだけではありません。
ディガーという男への憎しみや怒りも含まれています。
そうした感情までが、芸術の種になっているのです。
象徴的なのが、舞台のディガーが最後に海へ身を投げる場面です。
劇場の観客たちは、そこで熱狂します。
ディガーを笑い者に変え、その姿を舞台の上で笑う。
それは、過去の悲劇を少し違う形で受け止めるための行為なのかもしれません。
あるいは、自分たちを苦しめた男が無残な結末を迎える姿を見て、溜め込んできた怒りを発散しているのかもしれない。
まるで、演劇を通じた復讐のようにも見えました。
同時に、少し気になったこともあります。
ディガーを笑っている観客たちは、自分たちは彼とは違う、正しい側の人間だと感じているのではないか。
そうやって満足することも、また芸術の楽しみ方になってしまうのではないか。
拍手のあとに待っていたもの
『ハムネット』と比べると、『DIGGER』のほうが少しネガティブな作品だという印象を受けました。
『DIGGER』でも、観客たちは演劇に熱狂し、笑い、感情を共有します。
けれど、映画はそこで終わりません。
拍手のあと、劇場に「レベル4」の警報が流れます。
観客たちは防護マスクをつけ、劇場の外へ出ていかなければならない。
そして外には、災害によって荒廃した世界が広がっています。
どれほど素晴らしい演劇を観て、感動的な時間を共有しても、その現実までは変えられない。
警報が鳴れば、防護具を身につけて、荒廃した世界へ戻っていくしかないのです。
ずいぶん残酷な、現実への引き戻し方だと思いました。
芸術が起きてしまった出来事をなかったことにはできないという点では、『ハムネット』も同じです。
ただ、『ハムネット』では、芸術に触れることで人間が変わるという希望を強く感じました。
『DIGGER』は、その時間が終わったあとも変わらず残る現実を、もっと直接的に、生々しく突きつけてきます。
ネガティブに感じたのは、たぶんそのせいです。
でも、もう一つ考えたいことがあります。
それでも人は劇場に行く、ということです。
あの世界の人々は、劇場の外に何が待っているかを知っているはずです。
自分たちがどれほど過酷な世界で暮らしているかも、分かっているはずです。
それでも劇場に集まり、見ず知らずの人たちと同じ空間で同じものを観て、笑い、感情を共有する。
なぜ人は、そうした時間を求めるのでしょうか。
もちろん、現実逃避ともいえます。
目の前の悲惨な現実を、一時的に忘れるために演劇や映画を観る。そういう側面は間違いなくあると思います。
一方で、絶望的な状況の中でも人間らしさを保つために、芸術が必要なのだとも思います。
私は、この二つは矛盾しないと考えています。
嫌な現実から逃れるために芸術を求めることもあれば、現実に戻るために芸術を必要とすることもある。
芸術を観る体験は、人を強くしているのか。
それとも、現実を忘れさせるための手段にすぎないのか。
この映画は、そこに明確な答えを出しません。
私は、そこがいいと思っています。
優れた芸術は、重要な問いを投げかけながら、その答えを簡単には教えてくれないものだと考えているからです。
エンドロールで、客席にいる私の番が来た
ここまでなら、『ハムネット』と似たことを描いているだけだと感じる方もいるかもしれません。
むしろ『ハムネット』のほうが優れた映画だ、と思う方もいるでしょう。
でも『DIGGER』は、もう一歩踏み込んできます。
それが、エンドロールです。
映画が終わり、スタッフロールが流れ始めました。
「ああ、そういう映画だったのか。これはいろいろ考える余地がありそうだな」
そんなことを思いながら、私はぼんやり画面を眺めていました。
その瞬間、流れていた音楽がピタッと止まります。
そして劇場のスピーカーから、あの「レベル4」の警報が鳴り響きました。
ここが本当に巧妙だと思いました。
劇中の観客たちは、演劇に熱狂した直後に警報を聞き、荒廃した現実へ引き戻されていきました。
その光景を、私たちは映画として、さらに外側から観ていました。
劇中の観客は演劇を観る観客で、私たちはその観客を映画で観る観客です。
ところが同じ警報がエンドロールで鳴ったことで、今度は私たち自身が、劇中の観客と同じ経験をさせられる。
安全な場所から他人事として眺めていたはずの私たちが、突然、劇中の観客と同じ席に置かれるのです。
劇中劇では、ディガーや大統領が無責任で愚かな行動を繰り返し、劇中の観客はそれを娯楽として笑っていました。
では、イニャリトゥの『DIGGER』という映画を娯楽として楽しんでいる私たちはどうなのか。
劇中の観客がディガーを笑っていたように、私たちもスクリーンの中の権力者を笑っている。
でも、その私たちも、実は劇中の観客と同じような現実の中に生きているのではないか。
権力者が無責任に振る舞い、その結果として世界が壊れていく。
同じことは、私たちの現実でもすでに起きているのかもしれない。
映画を観て、他人事のように楽しんでいる場合ではないのかもしれない。
ずいぶん皮肉なメッセージを受け取りました。
あの警報を、映画の作り手が観客を見下して説教しているように感じる人がいても、不思議ではありません。
その見方も分かります。
ただ私には、皮肉と同時に、もう一つの問いにも聞こえました。
劇中の世界と、私たちの現実には、大きな違いが一つあるからです。
劇中の観客たちは、世界がすでに荒廃した後の時代を生きています。
私たちの世界は、少なくともまだそこまでには至っていない。
だからこそあの警報は、「あなたたちには、まだ選択肢が残されているのではないか」と問いかけているようにも聞こえたのです。
最初は『シン・ゴジラ』や『博士の異常な愛情』のような政治風刺を楽しんでいるつもりでした。
それが物語が進むにつれて、そもそも私たちはなぜ映画を観るのか、という問いに変わっていく。
そして最後には、映画を観ている私たち自身が、スクリーンの中の問題を本当に他人事として受け止めていていいのか、と問い返される。
何重にも仕掛けが施された、本当に面白い構造の映画でした。
そして、この最後の仕掛けは、劇場で観たからこそ強く響いたのだと思います。
映画の中から聞こえてきた警報が、今自分の座っている映画館のスピーカーから鳴っている。
それまで画面の向こう側にあった出来事が、急にこちら側へ入り込んでくる。
だからこそ、この映画は劇場で観てほしいのです。
「面白かった」で帰してくれない映画だった
賛否が割れるのも理解できます。
権力者への風刺を楽しんでいたら、突然、演劇や芸術そのものについて考えることになる。しかも最後には、観ている自分まで問いの中に入れられてしまう。
万人に勧められる映画かといえば、そうではないと思います。
それでも私にとっては、観終わってからいろいろなことを考え、こうして語りたくなった、強く印象に残る作品でした。
芸術は、起きてしまった悲劇をなかったことにはできません。
それでも人は、なぜ悲惨な現実の中で劇場に集まるのか。
そして映画を観る私たちは、スクリーンの中の問題をどこまで他人事として受け止めていていいのか。
明確な答えは出せません。
ただ、こうして考え続けていること自体が、私にとってこの映画を観た意味なのだと思います。
少なくとも、語りがいのある映画であることは間違いありません。
観てよかったと思える一本でした。
「ああ、面白かった」と席を立つ前に、エンドロールが流れ終わるまで、劇場の椅子に座っていてください。
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