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映画

【ネタバレあり】『オデュッセイア』感想・考察|「面白かった」で帰れることまで、ノーランの映画だった

※この記事は、結末を含めて『オデュッセイア』の内容に触れます。

結論から書きます。

2026年に私が観た中で、ベスト級の一本でした。

そして、できる限り大きなスクリーンで観てほしいです。可能なら、グランドシネマサンシャイン池袋や109シネマズ大阪エキスポシティのような、1.43:1まで映せるIMAXレーザー/GTテクノロジーの劇場で。

ただ、この記事は「観に行くか迷っている人」へ向けて書いていません。

もう観てしまって、劇場を出たあとも何かが引っかかっている人に向けて書きます。

私は見終わった直後、この映画を「観た」というより「目撃した」と言いたくなりました。

でも、あとから考えると。

そう言いたくなること自体が、たぶんクリストファー・ノーランの設計の内側だったんですよね。

『オデュッセイア』作品情報

公開日
2026年9月11日(IMAX先行上映は2026年9月4日から)
原題
The Odyssey
監督・脚本
クリストファー・ノーラン
原作
ホメロス『オデュッセイア』
出演
マット・デイモン、トム・ホランド、アン・ハサウェイ、ロバート・パティンソン、ルピタ・ニョンゴ、サマンサ・モートン、ゼンデイヤ、シャーリーズ・セロン ほか
撮影
ホイテ・ヴァン・ホイテマ
音楽
ルドウィグ・ゴランソン
上映時間
172分
配給
ビターズ・エンド、ユニバーサル映画
備考
劇場公開作品として史上初めて、全編をIMAXフィルムカメラで撮影
視聴方法(2026年9月現在)
全国の劇場で公開中

「観た」というより、「目撃した」

『オデュッセイア』は、トロイア戦争を終えたイタケの王オデュッセウスが、妻ペネロペと息子テレマコスの待つ故郷を目指す物語です。

日本公開は2026年9月11日。9月4日からIMAX先行上映が始まっています。

監督・脚本はクリストファー・ノーラン。原作はホメロスの『オデュッセイア』。上映時間は172分。

そして劇場公開長編として史上初めて、全編をIMAXフィルムカメラで撮影した作品です。

私は群馬県民ですが、これだけはノーランが想定したスケールで体感しなければ駄目だろうと思い、先行上映2日目、朝8時20分のグランドシネマサンシャイン池袋へ行ってきました。

朝4時起きです。

グランドシネマサンシャイン池袋のIMAXシアター入口。壁の大きなIMAXロゴの隣に『オデュッセイア』のポスターが掲示され、下部に「IMAXレーザーGT字幕 先行上映 08:20〜11:28」と表示されている
先行上映2日目、朝8時20分の回。グランドシネマサンシャイン池袋のIMAXシアター入口にて

そこで1.43:1の画面いっぱいに広がる海や戦争や怪物を見せられたら、そりゃ圧倒されます。

とんでもないものを目撃してしまった。

上映直後の感想としては、本当にそれでした。

ただ、私なりにこの映画を考えていくと、この「とんでもない映像を目撃した」という感覚そのものまで、かなり意地の悪い形で映画のテーマにつながっているように見えてきました。

最初に思ったのは、「これ、ほとんど『オッペンハイマー』じゃん」

見終わって最初に感じたのが、これです。

これ、ほとんど『オッペンハイマー』じゃん。

もちろん、原子爆弾とトロイの木馬が同じだ、と言いたいわけではありません。

でも、ノーランが主人公に背負わせているものはものすごく近い。

オデュッセウスは、10年続いた戦争を終わらせるためにトロイの木馬を考える。

軍事的には、とんでもなく有効な策です。

実際、それによってギリシャ軍はトロイアへ侵入し、戦争を終わらせる。

しかしその瞬間から、彼は「戦争を終わらせた英雄」であると同時に、自分の知性によって取り返しのつかないものを生み出してしまった人間にもなる。

ここが『オッペンハイマー』と重なりました。

目の前の戦争に勝つためには有効だった。

でも、一度それをやってしまった世界は、もう以前の世界には戻らない。

そして発明した本人だけが、その結果から逃げられるわけでもない。

『オッペンハイマー』の次に、なぜノーランが2800年前の英雄譚を撮ったのか。

題材は紀元前まで遡ったのに、問題意識はむしろ前作から地続きに見えました。

ただ、今回さらに面白いのは、その罪が最初からそのまま語られないことです。

まず疑うべきは、私たちが見た3時間だった

この映画は、吟遊詩人が英雄オデュッセウスの物語を語るところから始まります。

つまり冒頭から、私たちがこれから見るものは「歴史そのもの」ではなく、誰かによって語られた物語なのだと示される。

その先には、単眼の巨人がいる。

魔女がいる。

セイレーンがいる。

神々がいる。

普通に観れば、壮大な神話ファンタジーです。

しかもノーランが、それをとんでもない物量で本当に目の前へ出してくる。

一方で、オデュッセウスの長い旅の多くは、彼自身が失われた記憶をたどりながら語り直していく形で見せられます。

そこには記憶を奪う蓮まで絡んでいる。

だから途中から、私は少し疑い始めました。

私たちが見せられているものは、どこまで本当に起きたことなんだろう。

巨人は、本当に巨人だったのか。

アテナは、本当に彼の前へ現れていたのか。

怪物はいたのか。

神々は彼を罰していたのか。

あるいはこれら全部が、オデュッセウス自身が耐えられない記憶を「神話」という形へ変換したものなのか。

映画は、そこを最後まで確定させません。

しかも今回のノーランは、ホメロスをそのまま映像化しているわけでもない。

いくつもの古典的な要素を組み替え、人物や出来事を再配置し、特に「記憶を語り直す」という構造をかなり強くしています。

だから私は、この3時間を「オデュッセウスに実際に起きた出来事の再現」と受け取るより、オデュッセウスが自分自身をどう物語にしたのかを見る映画として受け取ったほうが、しっくりきました。

そしてその見方をすると、終盤のペネロペの前での場面が一気に重くなります。

ペネロペの前で、語りの質が変わる

帰還したオデュッセウスが、まだ正体を明かさないままペネロペへトロイアの話をする場面。

私は、あそこがこの映画で最も「真実」に近い言葉が出てくる場面に見えました。

それまでの彼の物語には、巨人がいる。

魔女がいる。

神々がいる。

怪物がいる。

ところが、あの場面では違う。

英雄的な冒険談ではなく、トロイアで起きたことを語る。

木馬は華麗な知略だった、では終わらない。

城門が開いた先で、10年間積み重なった憎悪が市民へ襲いかかったことまで思い出す。

しかもオデュッセウスは、自分のことを英雄として語らない。

木馬作戦で命を落としたシノンの名を介しながら、まるで自分自身から少し距離を取らなければ語れないような形で、その罪へ近づいていく。

ここで初めて私は、

ああ、この人は自分のやったことをずっと悔いていたのかもしれない

と思いました。

怪物に襲われた。

神に呪われた。

運命に翻弄された。

そういう英雄譚として語っている間は、原因を自分の外側へ置ける。

でも、あの場面では違う。

自分が考えた。

自分がやった。

その結果として、世界が壊れた。

そこまで戻ってくる。

この場面を基準点にすると、それまで見ていた神話の意味まで変わってきます。

映画が「ゼウスの掟」と呼ぶもの

ここは鑑賞後に調べて、一つだけ言い直したいところがあります。

映画では「ゼウスの掟」という言葉が非常に重要な意味を持っています。

ただ、古代ギリシャにその名前の一枚岩の法典が存在した、という話ではありません。

背景にあるのは、xenia(クセニア)と呼ばれる、客人と主人のあいだの歓待や相互的な信頼の規範です。

旅人を迎える。

食事を与える。

客人も主人を裏切らない。

そして、その関係をゼウスが見守っている。

映画はそれを、現代の観客にも分かりやすい形で「ゼウスの掟」として物語の中心へ持ってきています。

ここが分かると、トロイの木馬の意味がまるで変わる。

一般的には、「巨大な木馬の中に兵士を隠して敵地へ侵入した、とんでもない奇策」として有名です。

でも、この映画の見方では、それだけではない。

木馬は神への捧げ物だと偽装されている。

本来なら相手が尊重するはずの「贈り物」や「神」や「信頼」そのものを、攻撃手段へ変えてしまった。

つまりオデュッセウスは、敵より賢かっただけではない。

誰もが守ると信じているからこそ成立していたルールそのものを、攻略法として利用した。

だからこそ、「世界を壊した」という言葉が効いてくるんですよね。

戦争には勝った。

でもその後も、人は誰かを信じて生きていかなければならない。

一度「信頼そのものを罠にしていい」というところまで行ってしまえば、勝者だけ安全な世界へ帰れるわけではありません。

オデュッセウス自身も、自分が壊したルールの世界を漂流することになる。

ここまで来ると、『オッペンハイマー』との重なりがよりはっきりします。

技術的にできること。

知略としてできること。

そして、それをやっていいかどうか。

それらは同じではない。

一度越えた線は、なかったことにはできない。

人類は何度オデュッセウスになるのか。

私は、この2800年前の物語をノーランが今やる理由の一つを、そこに感じました。

アテナの顔は、誰の顔だったのか

そして、もう一つ忘れられないのがアテナです。

ゼンデイヤ演じるアテナは、旅の途中で何度もオデュッセウスの前へ現れます。

普通に受け取れば、女神アテナです。

ただ終盤、トロイアでオデュッセウスの目の前にいた若い女性と、その顔が重なってくる。

さらに、そこではアテナの像まで破壊される。

ここで私は、一気に分からなくなりました。

あれは本当に女神だったのか。

それともオデュッセウス自身が、トロイアで目にした女性の顔を忘れることができず、その顔を自分の良心や罪悪感のような存在へ変換したのか。

映画は答えを出しません。

でも私は後者の読みがかなり好きです。

自分のやったことを、そのままでは直視できない。

だから怪物にする。

神の怒りにする。

呪いにする。

そして、自分を見つめ続ける良心には、トロイアで見た女性の顔を与える。

そう考えると、この長い冒険そのものが、少し違って見えてきます。

神々がオデュッセウスを裁いていたのではなく、

オデュッセウスが「神話」という形を借りて、自分自身を裁いていたのかもしれない。

私には、そんなふうに見えました。

それなのに、とんでもなく面白い

ここまで書くと、ものすごく重たい映画みたいですよね。

でも実際には、めちゃくちゃ面白いです。

むしろ、過去のノーラン作品と比べてもかなり王道。

怪物が出る。

荒れ狂う海を航海する。

魔女が出る。

戦争がある。

故郷へ帰る。

そして最後には、とんでもないカタルシスまである。

冒険映画として欲しいものが全部入っています。

しかも今回、表面的なストーリーは驚くほど分かりやすい。

私はグランドシネマサンシャインへ向かうまで、「ノーランだし、一回で理解できるのか……?」と結構身構えていました。

その構えは、ほとんど必要ありませんでした。

上映終了後には拍手まで起きました。

周囲からも「めちゃくちゃ面白かった」という声が聞こえてくる。

そして私は、そこがこの映画の一番すごいところだと思います。

別に全員が、「これは英雄神話が加害の記憶をどう加工するかについての映画で……」なんて考える必要はありません。

そんな映画、嫌です。

怪物すげえ。

IMAXすげえ。

オデュッセウスかっこいい。

面白かった。

それだけでもきちんと成立する。

良い映画って、そういうものだと思っています。

でも今回、私はその「面白かった」という感想自体が、だんだん怪しく見えてきました。

「面白かった」で帰る人まで、この映画の中に入っている

『オデュッセイア』は、2800年近く語り継がれてきた物語です。

文章として残る以前から、人から人へ、歌として伝えられてきた。

当然、その過程で事実がそのまま保存されるわけではありません。

聞き手が分かりやすいように。

次の人へ伝えたくなるように。

英雄を、もっと英雄らしく。

怪物を、もっと怪物らしく。

物語は変わっていく。

現実に起きた出来事がある。

オデュッセウス自身の記憶がある。

彼が語り直した冒険譚がある。

吟遊詩人の歌がある。

ホメロスの叙事詩がある。

ノーランの映画がある。

そして最後に、映画館を出た私たち一人ひとりが持ち帰る『オデュッセイア』がある。

何重にも媒介されている。

そのたびに、何を残すかが選ばれる。

だから2800年後の私たちは、トロイの木馬を知っている。

キュクロプスを知っている。

セイレーンを知っている。

「知略の英雄オデュッセウス」を知っている。

でも、その木馬の中から出てきた兵士たちが、その夜に何をしたのか。

本人はその成功をどう受け止めていたのか。

そもそも怪物との冒険のうち、どこまでが事実だったのか。

そういうものは簡単に抜け落ちていく。

だから物語をエンターテインメント化することには、少し怖いところがあります。

面白い物語は、真実を歪める。

でも、ここで終わらないのが、この映画の好きなところです。

面白くなければ、そもそも2800年も残らなかった。

「面白い」と思った人が次の人へ伝えた。

また次の人が伝えた。

そうやって生き延びたからこそ、2026年のクリストファー・ノーランがそこから別の意味を掘り起こすことができる。

私たちもまた考えられる。

物語をエンターテインメントにすると、真実は歪む。

でも、エンターテインメントになるから、物語は生き延びる。

そして生き延びた物語の中から、未来の誰かがもう一度、埋もれた真実を拾い上げることができる。

この両面性が、本当に面白い。

吟遊詩人は、真実を薄めてしまう存在なのかもしれない。

でも同時に、真実の痕跡を未来まで運んでくれる人でもある。

ただし、その歌そのものを「真実」だと思い込んではいけない。

私は、この映画からそんなことを考えました。

試されていたのは、フルサイズIMAXで圧倒された私だった

そして、ここまで考えたところで、最初の感想へ戻ってきます。

私は群馬から朝4時に起きて、グランドシネマサンシャイン池袋まで行きました。

1.43:1の巨大な画面で観て、

「とんでもないものを目撃した」

と思いました。

でも、待てよ。

2800年間、吟遊詩人は人々の記憶に残るように、この物語を面白く語ってきた。

では2026年のノーランは何をやっているのか。

IMAXという、とんでもなく強力な現代の「歌」で『オデュッセイア』を語っている。

海を巨大にする。

怪物を本当に目の前へ出す。

戦争の凄惨さすら、息をのむ映像へ変える。

圧倒的な音を浴びせる。

そして私たちは、「すげえものを観た」と映画館を出る。

これって、作中で起きていることと同じなんじゃないか。

そう思ったんです。

IMAXの暴力的なまでの映像。

音。

映画としての圧倒的な面白さ。

それらまで全部使って、「面白い物語は何を残し、何を覆い隠すのか」という問いを観客自身に体験させている。

だとしたら、相当えげつないことをやっています。

私は最初、この映画を「観た」のではなく「目撃した」と言いました。

でも、「目撃した」と思わせるほどの映像を見せられたからこそ、それを真実だと思い込んでいいのか、というところまで戻ってくる。

映画そのものが巨大な吟遊詩人になっている。

しかも、とんでもなく優秀な吟遊詩人です。

面白すぎるから、簡単に信じてしまう。

2026年に観た中で、ベスト級の一本

私は『オデュッセイア』を、オデュッセウスが故郷へ帰る英雄譚としてだけではなく、

人間が出来事を物語へ変え、その物語が真実を歪めながら、それでも未来まで何かを運んでいくことについての映画

として観ました。

だからこそ、あの冒頭に吟遊詩人がいる。

だからこそ、オデュッセウス自身の記憶は曖昧でいい。

だからこそ、アテナが本当に女神だったのかも確定しない。

そしてだからこそ、この映画自身が、とんでもなく面白い。

全部を一回で理解したとは思っていません。

むしろ、もう一度観たら全然違うものが見えてくる気がしています。

ただ現時点では、2026年に私が観た中でベスト級の一本です。

できれば、グランドシネマサンシャイン池袋や109シネマズ大阪エキスポシティのような、1.43:1を活かせるIMAXで観てみてください。

そこで思い切り圧倒されてほしい。

そのうえで映画館を出たあと、一度だけ。

待てよ。

と立ち止まってみてほしいです。

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HAL8000

映画と猫を愛して、「ねことシネマ」を書いています。劇場での鑑賞を軸に、2025年は映画館で100本、配信を含めるとおよそ190本を鑑賞。洋画・邦画・アニメ・ドキュメンタリーまで横断して観ています。新作レビューから劇場での鑑賞体験まで、観たあとに残った熱をそのまま言葉にしています。

編集方針とプロフィールFilmarksnote(英語字幕の予習ノート)

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